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U-16日本代表のアジア予選敗退に安堵する

徹底したゼロトップ・ポゼッションサッカー、スタメンローテーションを貫き、2011年のU-17W杯ではベスト8に進出するなど目覚ましい成績を上げてきた吉武監督率いるU-16日本代表は、2015年のU-17W杯出場権をかけたアジア予選で韓国に敗れ、日本は5大会ぶりに不出場が決まってしまった。

もちろんそれ自体はバッドニュースではあるんだけど、個人的な感想だけで言えば少しほっとした部分があったりする。その理由は、「日本らしいコンセプト」を追求する事の愚かしさである。

ここ数年の日本サッカー界では、スペイン代表とバルサの快進撃によって、体格が似ている日本は彼らのようなポゼッションサッカーこそが日本の進むべき道であるとの大号令がかけられ、吉武ジャパンとなでしこジャパンの活躍、コンフェデとオランダ・ベルギー遠征でのザックジャパンの健闘によって、その傾向はますます正義だと定義づけられて来た。

ところがその集大成であるブラジルW杯では、その「自分たちのサッカー」はあっさりと弱点を見ぬかれ、コートジボワールは3バックで日本のプレスを無力化し、ロングボールを前線に集めてやすやすと日本を蹴散らせてしまった。そして吉武ジャパンも、守備を固めて個人能力でカウンターという韓国の対策に自ら嵌り込んで敗退と、すっかり以前の勢いは過去のものになってしまった。

当然である。どうも日本協会内では「日本人は1対1に弱いので、相手と接触せずにパスで崩す、個よりも組織で対向するサッカーをするべき」と考えている勢力が未だに巣食っているようで、それがトレセンの育成基準やザックジャパンの方針と選手選考に影響を持っていたフシがあるのだが、そもそもその考え自体が間違い、傲慢である事に気づいているのかと思う。

スペインやバルサがパスサッカーで強いと言っても、彼らは別に1対1が弱いわけではなくて、高いテクニックを持った選手を集めて効率性を追求した結果がああいうスタイルになったわけであり、日本のように弱点をごまかすために選んだコンセプトではない。アルゼンチンで鉄壁の守備を統率したマスチェラーノはバルサの選手だし、オランダでカウンターの原動力となったロッベンはグアルディオラのバイエルンでも主力である。

優れた個人戦術、スキルを持った選手はどんなサッカーにも適合出来るのに対し、偏った能力しか持たない選手はその特性が活かせるようなサッカーしか出来ず、それは常に相手からの研究、対策にさらされるリスクがあるというのは、サッカーに限らず全て戦略の基本原則である。スペインやバルサのように突出した成果を上げたチームでさえ数年で研究され尽くして常勝のサイクルが終わるのだから、足元にも及ばない日本が猿真似をしたところで何の意味があるのだろうか。

結局、トルシエが日本に持ち込んだ「守備は組織で縛る、1対1は体を張る、戦う気迫を出す」という世界の”常識”が、選手のロボット化、赤鬼の錯乱、スター選手の毛嫌いと異端のレッテルを貼られ、協会にとってそれ以降のアンチテーゼとなってしまったのが日本の不幸ではないかと思っている。一度はオシムが徹底的に個人戦術を鍛える事でチームを成長させる王道のプロセスを実行しようとしたが道半ばで倒れ、「日本サッカーの日本化」という言葉だけが誤って引用されてしまったのも痛恨だった。

ザックジャパンも吉武ジャパンも、敗退が決まってから出て来たセリフは揃って「方向性は間違っていない」。そりゃそうだ、どんな方向性も決して”間違い”ではない。ただ、結果を出すにはグーだけでジャンケンは出来ないという話だ。ポゼッションかカウンターか、個か組織かという二元論は全く意味が無いし、どれかと言われたら全て必要という答えしか出てこない。結局、強化にただ1つの正解、方向性なんて存在しないのである。

何かコンセプトを掲げて突き詰めさえすればサッカーは全て解決、という不遜で傲慢な考え方が、U-16の敗退で改めるきっかけになれば、それはそれで歓迎すべき話ではないだろうか。

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