日本社会とサッカーの関係

いや、この時期は本当にヒマですねえ・・・なんかフジ739も3チャンネル化して実質値上げに踏み切るそうですし、ますますスカパーの金額を取るか、試合ネタを取るかで頭を悩ませてしまいます(笑)。
それはさておき、前回ネタが無いのにまかせて書いてしまった駄文に、ZEROさんからご丁寧な意見を頂戴しましたので、ありがたくネタとして採用させていただきます。

いつぞや柔道の件でご連絡差し上げました、ZEROと申します。
本日のガゼッタ様のエントリー、まさしく日本社会一般に通ずる事象であろうと、常日頃から思っている次第で、同じ考えの方がいらっしゃると分かり、嬉しく存じます。
さて、なぜなんだろう、というガゼッタ様の問いかけですが、愚見を述べさせていただきます。
1:「戦後」の弊害
「失敗の本質」など最近は日本の戦史研究も盛んとなって参りましたが、我々日本人は、国民最大の失敗、つまり敗戦というものの意義を考えないまま既に60数年が経過している状況です。
なぜ、負けたか、なぜ失敗したかという追及もないまま、戦後は「1億総懺悔」などという後ろの二文字を入れ替えただけのスローガンの下、私たちの祖父、祖母の世代は日本の再建に努めました。それはそれで、素晴らしいことであり、私もその果実を得ている人間の一人です。
しかしながら、敗戦の責任は、一部の戦争指導者にあったとし、自らもその一員であったことは記憶の彼方に飛ばし、戦争に触れることがまるでタブーであるかのごとく教えが跋扈し、現在に至っております。
これも、サッカー同様本質論はさておいて、些末な事象に因を求めようとしている一つの例です。
通常の学校でも近現代史は取り上げられない機会が多く、近隣諸国との関係もあり、未だ定義付けが出来ない
状況にあります。
その意味合いが自衛戦争だろうが侵略戦争だろうが、負けたという事実は揺らがないはずです。ところが、なぜ負けたかという研究はされないままレッテルの貼り方を巡って争う始末。なんとも情けない大人達だと言わざるを得ません。
2:スポーツ=ソフトと政治・戦争=ハードは裏表
スポーツ社会学を学ぶとどこかで一度は学ぶことですが、要はスポーツも政治もコインの裏表に過ぎないわけです。W杯の時を思い出してください。まるで大本営発表ではありませんでしたか?
これは戦前と何ら変わらない不始末な出来事です。そう報じなければ「商売が成り立たない」というオトナの事情は小生にも理解できることですが、それとその結果をどう評価するかは全く別の話です。
ところが、ここ日本では「終わった話はもう言うなよ」となってしまうわけです。
これは、全くの推測ですが、私たちが死者に鞭打つ習性を持たないからではないでしょうか。人間死んでしまえば合掌せねばいられない、日本人に抜き難く存在する性質なのでしょう。
終わってしまえば、結果の是非を問う前に思い出話になってしまう、この辺りは怨霊研究がご専門の梅原猛氏や逆説の日本史の著者の井沢元彦氏の著作を読んでいただく方が、深く理解できるかと思いますが、死者を鞭打つ行動、すなわち厳しい論評を加えることは、古代では怨霊を呼び覚ます行動として戒められた事でした。おそらく精神構造としては、そのことと差はないものと考えます。
つまり、「選手は頑張っていたじゃないか。ここで厳しく言ってしまえば、彼らが可哀想だろ」と、こういう訳です。
こうした欠点はおそらく誰しも日本人なら持ち合わせているもの。定量的データの裏付けがないため、説得力を持たないので、
ガゼッタ様に共感していただくしかないのですが、私は以上のように考えております。
3:和を以て貴しとなす
これは日本における美点であり汚点であるもの。つまり、人間関係を円滑にするためには、あえてオブラートに包み、言わないようにするという日本人の処世術ですね。
つまり、日本は巨大な「ムラ」の集合なんです。変わってきてはいるものの、おそらく抜き難く存在しているはずです。そこには内容の合理性は存在しません。
4:他者の視点の不在
これは、海に囲まれる我が国故の習性なのでしょうが、「他の国から見られている」という感覚を政治家もサッカー関係者も
持ち合わせていないのです。
従って、国会審議はくだらないお遊びのようですし、サッカーのカンファレンスも些末な話ばかり。
アメリカは移民によって成り立ち、曲がりなりにも世界に大きく影響を与える国家として長い歴史を持ってきました。従って、エスタブリッシュメント(政治家達)は常にそのことを意識した行動をしています。
ところが、日本の場合は日本で上手くやっていければ、世を渡っていけるわけです。そこに一片の国際性もありません。おそらく、これは仕方のないことなのでしょう。自戒を込めて述べますが。
5:エスタブリッシュメントの欠如
市民革命を果たし、近代化を済ませた欧米その他の国には、大局観を持ったエスタブリッシュメントを長きにわたって輩出し、それを形成し続けてきたという背景があります。そして、彼らが政治を支え、経済を支え、文化を守ってきました。サッカーも例外ではありません。
それに引き替え、日本は戦後の中、戦前の貴族に変わるエスタブリッシュメントの形成に失敗し、今に至っています。従って、大局観を持って考える担い手がいないのです。そして、国を守れるパトロンもいません。それはすなわち文化を守るパトロンもいない、ということ。
世襲政治家と変わらぬ学閥事務屋が支配する政治とサッカー協会はまるでうり二つです。
原因と思われるのはこの辺りです。
政治がクソなのも、サッカーが川淵に蹂躙されてしまったのも、ガゼッタ様仰るように根っこは同じです。
それが自分たちの欠点なのだと、認識できなければ、おそらく変わることはないでしょう。これからも。と、小生は考えております。
長文失礼いたしました。

学術的な裏づけや理論の体系付けなどさっぱりやらずに下手な持論をぶっている私にとっては、全てごもっともと頷くしかないわけですが、政治や協会はともかくとして、企業レベルではトヨタや任天堂のように、自身の失敗をとことんまで検証し、掘り尽くして本質を事業に生かして世界の勝ち組みに成り得ていたりするわけで、日本人だからとあきらめるのは早いように思いますね。
要は、やはりトップのリーダーシップと高潔な理念あっての話で、今の学閥・縁故・身内なあなあが全ての、世界を知らない年代が協会を牛耳っている間は不可能なんでしょうけどね。とりあえず宮本が会長になるのを待つしかない状況ですなあ・・・(苦笑)

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする