今日の戯言

今日ずっと「何かやらないといけない事があったよな~」なんて漠然と考えていたら、夕方になってやっと思い出しました。パルマとセレッソの親善試合の予約の事を。当然すでにカテゴリー3は売り切れでした・・・しかし記憶力が無い頭ってのは損ですね、トホホ。また時間が経てばキャンセル分が出てくれるのでしょうか・・・
欧州組と言えば、結局昨日は高原も出場しなかったんですね。どうやら守備陣が退場になったりケガになったりしたようで、仕方の無い面があったのでしょう。次はバルバレスが出場停止なので、まず間違いなく先発でしょうから、しっかりやってほしいものです。
ところで「名も無き椣椣信者」さんから「世界サッカー紀行2002」の書評について意見をいただきました。

後藤氏の本に関する部分なんですが

>そこらのサッカー評論家が「日本はサッカースタイルが無い」などと
>言ったりするのも、自分たちが今の日本を説明する言葉を持っていな
>いだけの事

これには基本的には同意なんですが、彼らの中にはそれに加えて「今までの日本的な部分をあまりサッカーに持ち込みたくない、そんなサッカーは認めたくない」って心理が働いてる人もいそうに思うのですが、特にいわゆるエセ文化人もしくはそういう色を持っている専門家には。
要は、例えばこの間のW杯で話題になった某所椣椣スレッドで語られた「非力なりに猛プレスをかける=助け合いの心」とか「誰も点を取らないけど誰かがそのうち点を取る」みたいなのはスタイルとして認めるのに無意識の抵抗が働いてる可能性もあるのではと思いまして。
そういや上で挙げた典型例の某作家H氏も随分前、2000欧州選手権のネタに「日本のサッカーは優等生のサッカーだ、監督の言う事を聞くだけの」みたいな事を某N誌にのせていましたし。

うーん、それ以前に「認める、認めない」って考える神経が理解できないですよねえ。しかも、その基準ってのが「スペインやCLは素晴らしい、イタリアやJはクソ」だったりするわけで、そのくせ「トルシエは日本人をバカにしている」とか平気で言うわけですし、そうまでして自分を絶対視できる厚顔さは尊敬に値しますよね(笑)。
要は、いろんな角度から見て、強化として勝負として正しいか正しくないかが全ての判断基準であるはずなのに、そこに浅い知識からの一方的な好き嫌いで、それがさも正義であるかのように語るからおかしくなるんですよね。
ノーベル賞学者だか誰だったかの言葉に、「学問を学べば学ぶほど、自分がいかに物を知らないかを痛感させられる」というのがありましたが、何に対してもまず謙虚に学ぶという姿勢は大事にしたいものです。